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- 宮内(中世)とは
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宮内(中世) 室町期~戦国期に見える地名大隅国のうち応永9年8月12日の島津元久宛行状に「大隅国宮内万得房跡功得丸」が隈本石見守に宛行われているのがみえる(旧記雑録)文明8年と推定される4月8日付島津季久書状(相良家文書/大日料8-8)によれば,同年島津季久・国久が島津忠昌に反旗を翻して宮内・敷根(国分市)・清水(国分市)を攻めたことが知られ,「島津国史」同年2月25日条にも「清水人・曽於郡人攻宮内・東郷……皆国久・季久之党也」とある永禄4年4月,肝付兼続が島津氏に背いて,廻城を攻略した際には島津貴久は当地に逗留中であったという(樺山玄佐自記/旧記雑録)天正6年10月25日には豊後の大友義鎮の南進を迎え討つため,高津浜を出船した島津貴久が浜之市(現隼人町内)に着岸した後,当地の仮屋に宿泊している(耳川合戦日記/旧記雑録)また,「上井覚兼日記」天正11年4月2日条・同12年7月2日条・同年12月12日条・同13年5月14日条などには覚兼がしばしば浜之市から上陸して当地の大隅正八幡宮社家桑幡氏を訪ねたことが見えるなお,永禄10年7月27日契状案には「大すみの国宮うち,廊之坊と相論候て,宮内はかり中分たるへきよし申合候」とあり(熊野那智大社文書3/史料纂集),慶長4年5月9日の廊之坊(潮崎稜威主)諸国檀那帳にも「大すミノ宮内」と見えて,中世末期から紀伊熊野山の廊之坊が当地の檀那職を保持したことがわかる(熊野那智大社文書/栃木県史史料編中世4)「島津国史」文明8年2月25日条の註記に「宮内地名係八幡宮社地故名」とし,また「三国名勝図会」にも「宮内とは,正宮(大隅正八幡宮・鹿児島神宮)の辺,内村,見次村,内山田村の地に係り,方八町をいふとぞ」とする天文22年9月27日付の島津日新書状に「宮内之内正雲禅寺」(栗野徳元寺文書/旧記雑録),同23年11月13日付右馬頭某書状に「宮内竜波見」(垂水文書/旧記雑録),「上井覚兼日記」天正3年12月14日条に「宮内正興寺」などと見えるこの内,竜波見は現在隼人町見次に小字東竜波見・西竜波見・向竜波見として残存するが,同町住吉にも小字竜波見が見え,また正興寺は隼人町朝日に存したから,宮内とは「三国名勝図会」に説くよりも少しく広範囲の地域を指したと考えられる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
宮内(中世) 室町期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
宮内(中世) 戦国期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
宮内(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
宮内(中世) 南北朝期から見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
宮内(中世) 室町期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
宮内(中世) 戦国期に見える地名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」